文芸家の会・『架け橋』

俳句と随筆を中心とした季刊誌です

日本人の自然観の補足

 管理人がノートに書き留めた片言隻語から、代表が口頭で述べられたことを、書き起こしておこうと考えました。できるだけレジュメと重複しないようにまとめたいと思いますが、なかなかうまくいきません。ご容赦願い上げます。まとめは普段使い慣れている「である」調で書きます。


 ペンネームの由来から話された。
 二ノ宮一夫が本名である。「一雄」としたのは、一つは「檀一雄」からとった、ということと、一人の男になりたかったからだ、ということである。
 それからはレジュメに沿って話された。


 23区の中で渓谷らしい渓谷は等々力渓谷だけであるが、たどっていくと滝にぶつかり、等々力不動がある。吟行にいって驚いたのは、草木供養塔があったことである。で「秋雲の過ぎて草木供養塔」という句を作った。日本人は、草木さえも供養する、そういう心情があるのである。日本人の自然に対する特殊性と言える。西洋の自然に対する心とは違うのである。
 日本人の草木までも供養する心がなぜできたか。
枕草子』第一段、『徒然草』第四十三段、第百三十七段からうかがうことができる。前者と後者の間に三百年の隔たりがあるが、どちらからも、自然を愛でて敬う心があることがわかる。両者の作られたその間に、仏教の無常観が浸透してきて、季節感が変わってしまった、ということはあるが、自然を愛でて敬う大本は変わってない。その心が草木までも供養する心なのである。
 氏はそう結論されたと管理人は考えた。


 そこから現代に移る。
 現代はしばしば自然の中で大変な目にあっている。とくに3.11以後、自然観が変わってしまった。自然を敬う気持ちは変わってないのだが、自然から人間が受ける災害が変わったのである。災害が人災になったのである。市場主義から人間が不遜になり、自然災害が人災になったのである。


 ここまでが講演の本旨である。


 以下は質疑応答の答えだったようなのだが、質問がはっきりしない。氏の言葉を書き記す。

 蛍
 夏になると蛍が家の中に入ってくる。「蚊帳」に止まっている。蛍の青臭いにおいを覚えている。
  縁側にちちははのゐる蛍かな
  豊長みのる会長に褒められた句である。

 農家が相続税を払えなくて土地を売ってしまう。土地を手放す。
 (これはなんで述べられたか、ノートからはふめいである)

 井の頭公園
  吟行されている人がいるが、池の中にいる魚は外来魚である。井の頭公園に古来の魚はいない。そこで俳句を作っていていいのか。

 これから先の人生をどのように生きるか、という質問があった。
  氏の答えは、
  好きな女性と過ごし、いいものを書きたい、という気持ちで生きている。食べ物ももちろんある。